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【Otsuka Writing Lab.参加者作品】平成のKOキング・坂本博之が伝えたいこと

大塚新聞主催で行われた「Otsuka Writing Lab.」では、課題として参加者の皆さんに大塚新聞に掲載する記事を書いていただきました。
→イベントレポートはこちら!
今回はその中から大塚イチの情熱で賞を受賞した、ぱぱままぴよさんの「平成のKOキング・坂本博之が伝えたいこと」を掲載いたします!

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坂本さん②

今から11年前、JR山手線大塚駅からほど近い角海老宝石ジムで汗を流していた一人のボクサーがいたことを覚えているだろうか。彼の名は坂本博之。人は彼を「平成のKOキング」「現代版伊達直人」と呼んだ。引退から11年が過ぎ、坂本は今どうしているだろうか。
「こんばんは。よくいらっしゃいました」
元気な声で坂本が出迎えてくれた。JR西日暮里駅から徒歩数分の場所に「SRSボクシングジム」を構える坂本を11月のある晩に尋ねた。現役時代を髣髴とさせる鋭いまなざしはあるものの、優しい笑顔があふれていた。体型の事を尋ねた。
「変わったと言っても5キロ増えたぐらいでしょうか。選手と汗を流しているからあまり変わっていないですよ」とはにかみながら話す。
ボクサーの中には、極限状態まで体重を絞り上げた反動から引退後にリバウンドをしてしまい、当時の面影がないことも多いのだという。坂本にジムに通っていた当時の思い出話を聞いた。
「当時、僕は王子に住んでいました。住んでいたのは、小さなアパートで風呂無しでしたね。そこには約5年住んでいました。大塚までは都電で通っていました。大塚というと、どうしても隣の池袋と比べてしまう。華やかな池袋と比べて、駅にエスカレーターもなくてなんだか対照的だなあと思ったのは、今でもよく覚えています」
ボクサーという職業柄、ジム界隈で外食とは無縁だったかと尋ねてみた。
「よく外食しましたよ。特に覚えているのは、おにぎりの『ぼんご』さん。あさりとか、鮭とか、から揚げとかの具が入ったおにぎりをよく食べました。買って帰って年越しそばと一緒に食べたこともあります。つい最近も久しぶりに食べようと思ったら、並んでいて諦めましたよ(笑)。あとは、駅前のホープ軒とか。ラーメンは九州の豚骨ラーメンが多かったなあ」
九州、と口にした瞬間、坂本の眼差しが一瞬遠くの方を見たことを見逃すことはできなかった。

坂本さん①

坂本は1970年福岡県田川市で生まれた。幼いころに両親が離婚、知人宅に引き取られた。坂本を待ち構えていたのは空腹と虐待の連続だった。食事もろくに与えられず、学校の給食で空腹を満たすしかなかった。給食がある日はよかったが、ない日には弟を連れてザリガニを釣って食べた。時にはデパートの試食コーナーに行き、地面に落ちているパンを盗み食いすることもあったという。
「前を向いて先のことを考えようと人は言うけれど、当時の僕には目の前のことを考えることしかできなかった。どうなるのか、いつもびくびくしていた」
そんな中、弟が栄養出張で倒れ、周囲の大人も異変に気付いた。2人は福岡市内にある児童養護施設「和白青松園」に身を寄せることになった。食べることはできても、平穏な暮らしはすぐに訪れたわけではなかった。
「近所の人からは園子(えんこ・園のこどもの意)と言われて、いじめられたこともあった。そんな時でも僕の名前は『坂本』という名前があるのにと思いながらも悔しい気持ちになりました」
ある時、テレビから流れたのはボクシング中継だった。
「誰の試合だったか覚えていないけれど、テレビに向かってみんなが声を出していたのが印象的だった。見ていて、ただかっこいい、ボクサーになろうと次の瞬間には思っていた」
ところが、ボクシングジムに通うお金なんてあるわけもない。坂本は図書館でボクシングの本を読み、時には書き写してボクシングの虜になっていった。
その後、母親に引き取られ東京に移り住むことになった。
「この時に住んでいたのが、家賃が8000円くらいの風呂無し6畳のアパートでした。後で知ったのだけれど、アパートの近くに『あしたのジョー』で有名な『泪橋』があった。取ってつけた感じだけれど、ボクシングとの縁を感じてしまうのは不思議です」
デビュー戦から19試合連続で勝利、その後東洋太平洋ライト級王座に就き、世界戦を4度戦った。ある世界タイトルマッチの時のことだ。序盤でチャンピオンからダウンを奪った直後に、坂本の目から出血。レフリーが止めたこともあった。世界チャンピオンの称号は、坂本の手中に収まりかけながら、ふわりと手元から空高く飛んで行った。世界戦のたびに、福岡から施設の子どもたちは夜行バスで応援に来てくれた。
ある時のことだ。子どもたちが坂本の為に、手作りのチャンピオンベルトを作ってきてくれたこともあったという。
「自分が世界チャンピオンに近いと実感したことはなかったです。勝ち続けることで、かえって勝たなければという意識が芽生えてきた。自分の持ち味である打たれ強さ、これって、本来は相手に打たせちゃいけないんです。打たせることは今の自分からしてみれば、実は自分の弱点である弱さというのか、影の部分だと思います。でも、その影を知ろうとしなかった。弱さを知ろうとしなかったんですよ。それに気が付いたのは、引退間際でした」
晩年は腰痛などに苦しみ、2007年には引退をすることになった。

引退から3年後の2010年にSRSボクシングジムを立ち上げた。ジムの周りには、パチンコ店、飲食店が軒を連ね、大塚と似た雰囲気を醸し出している。現在ジムでは小学生から70歳の方まで約100人が会員となり日々練習をしている。
「うちのジムは開成高校を卒業した東大ボクシング部の主将、弁護士、会社員と仕事はばらばら。女性も10人ほどいます。お互いがお互いを認め合える環境が出来ているのはいいなあと思っています」
このうち、プロボクサーも数人抱えているが、ボクシングだけでは食べていくことはできず、仕事との両立をしながら汗を流している。
ジムでの会長業務をこなしながら、坂本がライフワークにしているのが講演活動と児童養護施設を応援する「こころの青空基金」の主宰。講演先はPTAや教育委員会以外に警察学校に赴くこともあるそうだ。児童養護施設の子どもたちに話しかけたことがあった。
「根性は元々あるわけではない。自分の夢に向かって追いかけることで、行動が根っこを生やしてくれる。行動することで人が応援をしてくれる。一生懸命やれば成功が待っているから」

坂本さん③

施設の子どもの多くが児童虐待を経験している。なかなか成功体験や十分懸命に生きているのに一生懸命という言葉に、どこか半信半疑になることも子どもの中にはあると実感するという。そんな時、坂本は「一生というと疲れてしまうから『その瞬間ならできるでしょ?』と話すようにしています。『一瞬懸命』ですね。子どもたちからはそれならばがんばれると返してくれる」
リング近くに飾られた「不動心」の書が静かにジム全体を見つめながらも包み込む。何事にもぶれない強い気持ちに加え、坂本は意識する。「熱を持って接すれば、熱を持って帰って来る」と。
静と動を持ち備えながら、坂本はまた練習相手にミットを向けて練習に戻っていった。





記者:ぱぱままぴよ
豊島区在住の父親年齢1歳です。ニワトリになれない(ならない)ひよこな父です。興味を持ったことを調べてみることが好きです。ジャンルを問わず様々な記事を発信していければと思います。好きな言葉は「常識を疑え」。

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